Interview

SHOWAISM〜私のストーリー〜

研究者である今にリンクする
“昭和っ子の研究”

慶應義塾大学 大学院医学研究科委員長
医学部生理学教室教授
岡野 栄之さん

昭和女子大学附属昭和小学校
1971年卒業

初等部時代に、体力や学力、精神面などの“基礎”が鍛えられた

自宅から学校が近く、また母が昭和女子大学家政学部で教鞭をとっていたこともあり、昭和女子大学附属昭和幼稚園と附属昭和小学校(以下、初等部)に通いました。当時の初等部は少数精鋭で1学年30名2クラス。ちなみに、男子は1学年に12名だけでした。1、2年の2年間は、各クラスに男子が6人ずつ。3年生からは、1組は女子だけのクラス、男子12人は全員2組でした。3年生以降はクラス替えがなかったので4年間同じクラスでした。それもあってか、結束力も強く、卒業してから45年以上経ちますが、10年ほど前から定期的に同期会を行っています。

初等部時代のことで思い出されるのは、集団生活や体力づくりに力を入れていたこと。4、5年生では臨海学校、6年生では林間学校に行くなど、約1週間の宿泊学習が頻繁にありました。ちょうど臨海学校へ行っている間に「アポロの月面着陸」の生放送があり、先生も“就寝時間だけど今日は大切な日だからいいよ”と中継を見せてくれたこと覚えています。その宿泊学習では、集団生活での大切さだけでなく体力を鍛えることにも努めていました。もともと、私は“金づち”で10メートルも泳げなかったのですが、臨海学校中の練習で100メートル泳げるようになりましたし、林間学校では関東地方の最高峰である日光白根山の前白根山にも登りました。また、現在も続く初等部の伝統的な活動の一つである「富士登山マラソン」は、私が在籍していた当時からありました。日々、校庭を走った距離を記録して、昭和女子大学から富士山頂までの往復距離(256km)に到達するまで走りぬく、というもの。社会に出てからの激務をこなすための基礎体力や精神面の強化につながったと思っています。

故・菊地史郎先生は、厳しいながらも大変人情味のある先生でした。1、2年生のときはとても優しい先生という印象でしたが、5、6年生のときはとても厳しかった。私は4年生まで、授業以外の勉強をほとんどしていなかったのですが、菊地先生の厳しくも温かいご指導でしっかりと勉強する習慣をつけることができました。毎日お手製のプリントによる宿題が、かなりの量があったのを記憶しています。そのため、習慣だけでなくおのずと成果も出てくるようになりました。

研究者としての礎は、初等部の「昭和っ子の研究」で培った

初等部では現在も続く「昭和っ子の研究」。毎年「昭和っ子の研究」として冊子にまとめられ、読売教育賞本賞をはじめ、発明工夫展東京都学校賞、文部科学大臣賞を受賞するなど高い評価を得ています。

初等部の授業で印象に残っているのは、「昭和っ子の研究」。すなわち「総合学習」なのですが、創立以来このカリキュラムがあり、私たちも毎年研究テーマを決めて発表をしていました。今では普通にある「総合学習」ですが、当時はかなり先駆けとして行っていた教育だったと思います。3月に発表会があるのですが、毎年2月くらいからはそのまとめ作業にかなりの時間を費やすほど、力を入れていました。研究内容の大枠は、先生方が、ある程度は決めるのですが、細かい内容は児童たちで決めることができます。仲間と毎週、何時間もかけて模索、立案、調査、実験し、研究内容を模造紙にまとめる。絵やグラフ、表や立体物なども作成し、最終的には大きな講堂のステージで発表するという晴れ舞台を踏んだ記憶があります。3年生は「世田谷区の地理」について、5年生のときは「文学の名作」についてプレゼンテーションした覚えがあります。特に5年生のときには、私がクラス全体の発表のナレーターを担当したのでとても強く記憶に残っています。

現在、研究者の職に就いている私が、“研究者っておもしろそうだな”と最初に思ったのは幼稚園にあがるころ。科学や歴史、日々の疑問などを子ども向けに分かりやすく説明していたNHK総合テレビの「ものしり博士」という番組を見て、博士、研究者っておもしろそうだなと思いました。母は昭和女子大学の教授で、父方の祖父も天文学者でしたので、“自分の興味のあることを突き詰めていく学者”という職業を知っていて、ごく自然に自分もその様になりたいと思っていました。

その夢は、大学進学時も変わりませんでした。高校時代は、理論物理学に興味があったのですが、慶應義塾大学の学部説明会に行くと、私の目指している学科がないことが判明。しかし医学部の説明会で、開業医や大学勤務医以外にも研究者の道があることを知り医学部進学を考えました。当時読んでいた、ノーベル物理学賞を受賞した学者エルヴィン・シュレーディンガー博士が、物理学者の観点から、遺伝物質の存在を考察した著書『生命とは何か』とリンクしました。医学部に進学して、物理学の観点から生命科学を研究するのもおもしろいだろうな、と思う様になりました。現在では、医学部内でも教育の多様性があり、臨床医ではなく、科学者(研究者)を志望する学生に対応した授業やコースもありますが、当時は100% が必修科目でした。ですから、医師になるための勉強の傍ら、研究者になるための勉強は独学するしかありませんでした。それでも医師国家試験と並行して、生命科学者になるために、分子生物学の実験をしたり、英文論文を読むなどの勉強もしていました。

振り返ってみると、今の仕事と「昭和っ子の研究」の根本は同じだと感じることがあります。どちらも仮説を立て調査や実験を行い、実証し、結果をプレゼンテーションするという過程を経ますから。幼稚園のころに夢見ていた仕事の一端を、小学生のときに体験できました。あの当時、「算数のドリルを解くよりも、『昭和っ子研究』のほうがよっぽどおもしろい」と思っていましたし、発表したときの達成感は、ほかでは感じられないものでした。間違いなく、あのときのワクワク感が、私を研究者の道へと導いたものと確信しております。

岡野 栄之さん

(おかの・ひでゆき)

慶應義塾大学 大学院医学研究科委員長 医学部生理学教室教授

1971年 昭和女子大学附属昭和小学校卒業

1983年 慶應義塾大学医学部卒業後、米国Johns Hopkins大学医学部研究員、筑波大学基礎医学系分 子神経生物学教授、大阪大学医学部教授等を経て、2001年より現職の慶應義塾大学医学部生理学教 室教授。以降医学部長、大学院医学研究科委員長を歴任。

主な研究領域は、分子神経生物学、発生生物学、再生医学。

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