Interview
SHOWAISM〜私のストーリー〜
昭和女子は第二の故郷
内モンゴルから日本へきて
歌手/作家
Wuyontana さん(ウヨンタナ)
昭和女子大学大学院
生活機構研究科 生活文化研究専攻 修士課程
1995年修了
10代から歌手として活動していました
内モンゴル出身の私。幼い頃から歌が好きで、ずっと歌手になりたいと思っていました。その夢がかなったのは、中学2年、16歳のとき。中国・内モンゴル自治区軍区歌舞団のオーディションに合格し、以来約6年間プロの歌手として活動していました。
当時は日本語も英語もできなかったのですが、日本の大学に行くならファッション、アメリカの大学に行くなら映画を学びたいと、心のなかで密かに思っていました。なぜ日本でファッションを学びたいと思ったかというと、1980年代の日本のドラマを見ていたから。コンサバティブなスーツを着こなした女性たちが颯爽と仕事をし、恋愛をする。当時の中国・内モンゴルでは、“人民服”と呼ばれる服が主で、ファッションという概念がないに等しかったので、強いあこがれを抱いたんです。そして1987年、海外留学先に選んだのは日本でした。
当時、幸運にも駿台学園理事長で東京私立大学協会会長を務められていた瀬尾先生のご紹介で、人見楠郎先生(昭和女子大学第5代学長)と昭和女子大学に出会うこととなりました。とても素敵な校舎と親切な先生や職員のみなさん、そしてなによりアパレルが学べる「家政学部生活美学科(現:環境デザイン学部環境デザイン学科)」があるということで、入学を即決しました。
大学在学中は、ファッションの勉強と歌手活動で多忙な日々を過ごしました
多くのサポートを得て入学しましたが、最初はとても緊張しました。当時はまだあまり日本語が話せなかったですし、まだまだ日本特有の食生活にも慣れていなくて。さらに入学時は25か26歳だったか、周囲の学生よりもだいぶ年上。16歳から仕事をしていたこともあり、周囲の学生との距離を感じることもありましたね。
ありがたくも、授業料を全額免除していただいていたので、単位を落とすわけにはいかないというプレッシャーから、周囲の学生よりも多めに授業を取り、分からないところはすぐに先生に聞きに行っていました。語学の面でハンディがあるので、講義系の座学はたいへんでしたが、服飾のパターンなどが学べる演習科目はとても楽しかったですね。
当時からテレビ東京で放送されていた「ファッション通信」(現在もBSテレビ東京で放送中)を観るのも楽しみでした。ファッションシーンの最前線を伝えてくれる番組で、毎週欠かさず観ていました。録画もして何度も観返していましたね。一方で、1990年代の渋谷ではカジュアルなストリートファッションが流行。“コギャル”と呼ばれる女の子たちが、ミニスカートにルーズソックスや厚底ブーツを履き、闊歩していた時代です。勉強の合間には、渋谷の街に行き、彼女たちのファッションを参考にデザインするのも楽しみでした。
昭和女子大学に入学してからも、内モンゴルで音楽活動をしていたことがきっかけで、最初は海外の情報を扱う番組、NHK「ハロー!ワールド」に出演したり、またラジオ番組などで歌う機会にも恵まれました。平日は学生として勉強し、週末はコンサート。声がかかれば、中国人ミュージシャンと一緒に北海道から沖縄まで、全国各地に出向いていました。長期休暇中は、中国に帰省してテレビ番組に出演したりもしていました。そうそう、昭和女子大学の人見記念講堂でも歌を披露しましたよ。当時一緒に音楽活動していた中国人のミュージシャンを20~30人呼んで、迫力のあるパフォーマンスをさせていただいたんです。ふだんは大人しい私が、舞台上では華やかな衣装を身にまとい、堂々と歌っているということに、同級生も驚いていましたね。昭和女子大学はとても居心地がよく、そのまま大学院まで進み、昭和女子には長くお世話になりました。
昭和女子大学で学んだファッションを武器に上海でアトリエをオープン
2002年、家庭の事情で中国へ戻ることになりました。その機会に夢だったアパレルのアトリエを上海でオープン。といっても、友達のオフィスを間借りした小さなアトリエです。大学で学んだ知識、日本で磨いた感性を生かして、様々な提案をすることができました。また、大手のファッションメーカーからも声をかけてもらい、アドバイザー、デザイナーも経験。これも昭和女子大学で学んだ基礎があったからこそのことだったと思います。
仕事は順調でしたが、子どもが中学に進学するタイミングで、また日本で暮らそうと思いました。2010年頃のことです。子どものキャリアだけでなく、私自身も日本の生活に慣れてしまったこともあります。上海にはあまり友人もいなかったので、なかなかリラックスできる時間がなかったんです。様々な価値観が形成される大学時代を日本で過ごしたので、ずっと中国や内モンゴルで生活している人たちとは、感覚や価値観、会話の内容にズレが生じてしまったのかもしれません。…私自身、初めて来日したときからは想像もできないことなのですが、日本での生活が居心地よくなってしまっていたのです(笑)。
日本は気候も良くて、皆さん親切で。特に昭和女子大学がある世田谷区に長く住んできて、とても居心地がいいですね。アメリカにも何度か滞在しましたが、やはり日本が好き。日本での生活のほうが長くなって、もはや“第二の故郷”を超えるふるさとと言えるかもしれません。
「音楽活動」とともに「ファッション」が人生の基盤、誇りとなっています。
音楽活動とファッション、どちらかの比重が重くなる時期ももちろんありますが、私の中ではとてもいいバランスで存在しています。“遊牧民”のDNAを引きついでいるがゆえに、自分でも今後またどこへ“遊牧”するのだろう(笑)と思います。
コンサートでは自分で作った衣装で出演したくて、着物の生地を使って、チャイナドレスを作ることに挑戦しました。型取りや縫製は大変でしたが、このように文化の融合は、私の個性を表現する大切な武器になっています。ちなみに、今日着ているこのワンピースも私の手作りです!
2019年5月24日、21年ぶりに人見記念講堂でコンサートをやらせていただいた時には、公演当日、金子朝子学長(当時)からお花を頂いたのですが、そこには「人見楠郎先生もきっと喜んでいらっしゃいます」という金子先生の自筆のメッセージも入っていて、本当に感無量になり、涙が出てきました。
またここ数年、執筆活動も始めて、若い時から書きたかったシナリオや、短編小説なども書いています。日本語で書くのは少し苦労しますが、中国語だとやはり書きやすいと感じます。自分が小学校一年生から中国語で教育を受けていたから、かもしれません。モンゴル人と言いながらも、モンゴル語が得意ではなくって(苦笑)。
私が昭和女子大学で学んでいた時代は、大学の校則がとても厳しかった思い出があります。パンツスタイルや原色など華美な服装は禁止。みんな清楚で清らかな印象でした。昨年、昭和女子大学の学園祭「秋桜祭」でファッションショーやダンスパフォーマンス、マンドリンの演奏などを拝見したのですが、今でも昭和女子大学の学生さんはきちんとされていて、関心しました。
昭和女子大学は、私の人生を変えてくれた場所。内モンゴルから来日して、右も左も分からない私を、人見先生が助けてくださり、昭和女子大学には私の人格形成に影響を与えてもらいました。特に大学で学んだファッションの知識は、私の基盤となっています。現在、昭和女子大学で学ばれている皆さんも、今、学んでいることは、卒業して何年経っても役立つものであると思います。どこの地域、海外に行ったとしても昭和女子大学卒業生であること、皆さん自身の人生を誇りに思って過ごしてください。
1990年 昭和女子大学短期大学部 生活文化学科 卒業
1992年 昭和女子大学 家政学部 生活美学科 卒業
1995年 昭和女子大学大学院 生活機構研究科 生活文化研究専攻修士課程 修了