Interview

SHOWAISM〜私のストーリー〜

逆境を乗り越える底力
- 活きた昭和での学び

株式会社陣屋/株式会社陣屋コネクト
代表取締役 女将
宮崎 知子さん

文学部 日本文化史学科
(現:人間文化学部歴史文化学科)
2000年卒業

中高部で苦手だと避けていた“化学”が、卒業論文制作時のネックに!?

附属中高部から昭和学園に通いました。母は私に中学受験をさせたかったようでしたが、一方で父は当初あまり乗り気ではなかったように見えました。ところが、父の職場にいた昭和女子大学の卒業生の立ち居振る舞いを見たり、学校生活の話を聞いたりするうちに父も昭和女子大学附属への受験を応援してくれるようになり、私自身も、自宅からも通いやすいならと昭和女子大学附属中高部を受験しました。

中高部卒業後は短期大学国語国文学科に進学。けれど授業を履修しているうちに、やはりもう2年勉強したいと思い始め、「文学部日本文化史学科」3年生に編入学しました。学芸員資格取得を目指していたので、昭和女子大学内の「光葉博物館」(学内の研究成果を発表や展示を社会に公開して情報発信を行う施設)には、入り浸っていました。文化財保存学を研究する武田昭子教授のゼミに所属していたのですが、大学4年生のときに千葉県・鎌ケ谷市教育委員会から武田先生に「木質看板の保存や展示用レプリカ制作」の依頼があり、その助手を務めさせていただきました。その経験をもとに、大学の卒業論文も書きました。文化財の保存を学ぶうち、後悔したことがありました。実は文化財を保存、修復するには、“化学”の知識が不可欠なのですが、苦手だったため中学高校のときに極力避けてきた分野だったのです。しかし、原理原則を理解していないと文化財を傷めてしまうことになりかねない。結果、苦労することにはなりましたが、“学び”は多様な分野が繋がっているのだと痛感した瞬間でした。

武田先生の言葉で印象に残っていることがあります。それは、「今の科学・技術で無に戻せるものにしてください」という言葉です。文化財保存の世界では、必ず数十年後には新しいテクノロジーが出てくるものなので、現状でできる最大限のことを行って、あとは後世にバトンタッチすればいいという考え方をするんです。文化財は、修復したとしても、そこからまた一旦もとに戻せないと、新たな技術での保存もできない。つまり、あくまでも私たちは「中継ぎ」ということ。もし間違った薬剤を使用して、素材を抜本的にダメにして後戻りできなくならないように、これまでの修復事例がないのかを調べたり、色んな薬剤を調べた記憶があります。

大学では卒業に必須となる科目以外、興味のある授業を自由に選択できたので、自分でカリキュラムを組み立てて楽しんでいました。4年生になってもたくさん授業を履修していて、週6日は大学に通っていたので、卒業時には卒業に必要な最低単位数を大きく上回る単位数を取得していました。…よほど大学が好きだったんでしょうか(笑)。

私が就職した2000年は就職氷河期。就職課(当時)の掲示板に出ていた求人に、40社ほどエントリーしました。まだパソコンが1人1台ある時代ではなかったので、学校のパソコンルームに日参し、仕事を探していましたね。そして東芝系のリース会社に一般職として就職しました。従業員数は200人程度。人間関係がとてもいい会社で、働きやすい環境でした。事務職、営業のアシスタントをしていたのですが、営業も担当させていただいたり、プロジェクトメンバーに選んでいただいたり。支社長の出張などの交通手段を手配しているうちに、秘書のような仕事を任せていただけたり。いろいろと、責任ある仕事をたくさんさせていただきました。

「エンジニアの妻」から一転、「旅館の女将」へ

2006年、6年間の社会人生活を経て、メーカーでエンジニアとして働く夫と結婚。夫の実家が100年以上続く老舗旅館「元湯陣屋」だとは知っていましたが、夫自身に旅館を継ぐ気がありませんでしたので、私はエンジニアの妻として生活していくのだと思っていました。2009年、2人目の子どもが生まれ、しばらくしたら社会復帰したいと考えていた矢先、事件は起こります。出産2ヶ月後、ひょんなことから、私も夫の実家である旅館で働くことになったのです! 私自身、自分の人生で「旅館の女将になる」という選択をするとは想像すらしていませんでした。

義父が急死し、3代目女将だった義母も看病疲れで倒れる直前、夫の実家には10億円を超える借入金があることが判明。しかも、夫も連帯保証人になっているということもわかりました。義母が入院し、連帯保証人である夫が矢面に立たされたとき、「僕の生涯年収を超えている」「今の状況を続けても将来はない」という話になりました。旅館の売却先を探しましたが、某ホテルチェーンから提示された金額はわずか1万円!旅館も従業員も失って1万円をもらうか、10億円を返済するかの2択でした。そのとき、当時2歳だった息子に負債を残したくないという思いを夫婦で強く感じていたので、そのためには返済しかない!と腹をくくりました。

経営や銀行の交渉は夫が行う一方、実務は私が女将として執り仕切ることになりました。2人ともサービス業に携わるのは初めてでしたので、おのずと旅館業界に長く携わっている方たちとは異なる視点からの経営改善を行うこととなります。たとえば、異業種から転職してきた私から見ると、当時の旅館経営は非効率に映りました。そこで従業員に、包み隠さず旅館の経営状況を説明し、仕事の改善を依頼。賛同し受け入れてくれた方だけが残りました。 また、夫が数か月かけて構築した、まったく新しいITシステムを開発、導入しました。夫はエンジニアでしたがプログラミングが専門ではなかったので、試行錯誤していましたが、徐々にシステムはブラッシュアップされていきました。従業員全員がタブレットを持ち、日々の情報や料理の変更点、宿泊客のアレルギーの有無や希望、好みなどを共有できるように。そうすると従業員の人数が少なくても、1人で複数の仕事を効率よくこなせるようになったのです。さらに、従来以上にきめ細やかなサービスも実現しました。

昭和女子で自然と身についた生活習慣や礼儀作法が、私を救ってくれました

夫がゼロから生み出したシステムを、私が中心となり運用する。その二人三脚で経営することにしました。システムを使い始めて3年ほど経つと、現場も落ち着き、経営も安定化。そこで2012年、もっとよりよいシステムを構築するため、またほかのホテルや旅館運営を知る機会を得るために、旅館・ホテル管理システムを提供する「陣屋コネクト」を起業。夫が開発したシステムを外販することで、さらに「陣屋」を発展させたかったのです。すると多くの旅館からご相談が舞い込んできました。そのオファーに応え、システムをバージョンアップ。現在では、全国で400ほどのホテルや旅館に利用していただいています。おのずと「陣屋」のサービスも向上、より質の高いサービスをお客様に提供できるようになりました。旅館グループの売上は、9年間で2.8倍となり業績も回復しました。

私は、先代の女将が病気で入院した後に、女将の仕事を引き継ぎましたので教えを乞う時期がありませんでした。女将として順応することは、並大抵のことではありませんでしたが、それでも中高生の頃、先生方が校則や生活態度について厳しく指導してくださった経験があったからこそ、仕事をしていくことができたと思っています。特に今の仕事に就いて活かされているのは、私たちが在籍していたころには必須であった「茶道の時間」での教え。和室への入り方、畳のヘリは踏まないなどの基本的な歩き方、お辞儀をしながら頭を動かしてはいけないなど。当時は、思春期の中高生が持つ“反骨精神”のようなものももちろんありましたし、むしろ“仕方なく向き合っていた”という記憶があります。“決められた枠のなかで、どうやって個性や自由に折り合いをつけていくか”ばかりを考えていたけれど、世の中では、それがスタンダード。口酸っぱく言われて、正直、当時は“鬱陶しいな”とさえ思っていたのですが、いざサービス業に携わったときに、中高部で教えていただいたことを思い出しながら臨むと、ある程度のことはクリアできました。自然と、何度も「校訓三則*」に助けられたのです。

*校訓三則とは

「世の中の光となろう」という建学の精神を、実際の生活面で具体的に表現したものが、校訓三則です。
「清き気品」清らかで温かさのこもる心の在り方や言動
「篤き至誠」何事も心をこめて誠に徹する姿勢
「高き識見」志をもって自ら考え自主自律できる精神の高さ

私だけでなく、同級生の友人を見ていても、ちょっとやそっとのことではへこたれない力が、昭和女子大学の卒業生には備わっていると感じます。たとえば、職場で何か頼まれごとをしても、「NOとは言わない」。特に新人時代は、自分の仕事とはまったく関係のない雑用を頼まれることも少なくありません。また、なぜか思いもよらないことばかりが連続して起こることも珍しくありません。せっかく入社した会社がM&Aや合併などで環境や社風・文化が変わるなど、自分の力が及ばないこともあります。そんなときでもへこたれず、まずは挑戦してみようと前向きで真面目な性格の人が多いんです。

この精神は、当時、昭和女子大学の客員教授をされていた、故渡辺和子先生(ノートルダム清心学園理事長)の「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に詰まっていると思います。学園で学ぶうちに、自然と順応性や忍耐力が身についていたのではないでしょうか。与えられた環境をどう楽しむか、思考をポジティブに変換できる女性でいてほしいですね。どんなに厳しい環境のなかでも、目の前にある仕事やその先にいらっしゃるお客様と向きあうこと、そして仲間から必要とされる存在になることで、道は拓けると思います。

コロナ渦のいま「元湯陣屋」は・・・

2020年4月に4週間ほど臨時休業を行いましたが、5月からは営業を再開しました。現在も売上としては昨年割れをしているものの、IT化していたことが功を成し、今は雇用を守りつつも自分たちの宿だけでなく、神奈川の大山丹沢エリアの観光救済およびその活動を通して全国に事例を発信しようと、さらに活動の範囲を広げております。

朝日新聞デジタル「神奈川)「団体から個人へ旅は変わる」 鶴巻温泉の女将」

宮﨑 知子さん

(みやざき・ともこ)

株式会社陣屋/株式会社陣屋コネクト 代表取締役 女将

1998年 昭和女子大学短期大学部* 国語国文学科卒業

2000年 昭和女子大学 文学部 日本文化史学科卒業

*昭和女子大学短期大学部は2014年3月に廃止しています。

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